文人の花明治維新後、「不開化千万」と批判された花道は未曾有の沈滞期にあった。加賀藩の後援を受け江戸に一大勢力を築いていた古流の家元関本理恩は、明治四年(一八七一年)に「近年世柄悪しく、 一年ましに世上窮迫いたし、為に旧冬より当春にいたりても宅の稽古一人もなく、出稽古も漸く十人ばかり」と記している。従来の支持基盤であった武家や商家の多くが没落したことは致命的であった。 また江戸時代後期から花道の中心的形式となっていた「生花」もその魅力を失っていた。天地人三本の枝を基本とし規格を重視するその形式は固定化し、形式に付随する儒教的な精神論も新時代にそぐわなかった。 わずかに曲線美を強調する遠州流の「生花」が西洋人の目を引きつけていたものの、少なくとも江戸においては大半の花道諸流派が苦境に立たされていたのである。 この時期に存在感を示したのは、「文人花」である。「文人花」は「煎茶花」とも呼ばれるように煎茶道と近い関係にあり、茶を喫しつつ花を楽しむことを目的としていた。 その有様も規格を重視する「生花」と異なり、自由で瀟洒な花態を尊重した。江戸時代前期に黄檗宗とともに明から渡来した「文人花」は、大和郡山藩の重臣柳沢里恭(淇園)や読本作者上田秋成、印聖高芙蓉、 儒学者頼山陽、あるいは煎茶家松井楓川、画家田能村竹田らに愛好される。その由来から『瓶花譜』の著者張謙徳や『瓶史』の著者袁宏道ら明代花人の影響が強いが、 竹田の著した『瓶花論』は北條明直が指摘する通り「全く日本人らしい詩情」に溢れており、「文人花」が江戸時代後期、日本的な文化と融け合う形で流行したことが分かる。 この「文人花」は明治以降も政府高官や文化人の間に受け継がれた。明治一〇年(一八七七年)には後に貴族院副議長となる細川潤次郎(吾園)が『瓶花挿法』を著している。 細川は「瓶花は、ただ趣。趣は万変不窮。」と言う。「根洗い」として根をつけたままに草花を用い、また「盛物」と称して蔬菜や果物を飾り、 あるいは「不老長春(松と薔薇)」や「富貴神仙(牡丹と桃)」といった謎語画題を玩ぶ「文人花」の「趣」は深い漢学的教養を要するものであり、民衆の花とは隔離した高踏的な文化であった。
小原雲心と盛花明治期を代表するもうひとつの花は、小原雲心によって考案された「盛花」である。文久元年(一八六一年)雲州松江に生まれた雲心は当初彫塑家を志しており、 その技量は明治二九年(一八九六年)の京都美術展覧会に出品した布袋和尚像が明治天皇御買い上げとなる程であった。雲心が花道に転じたのは生来の病弱さが理由と言われる。 既に池坊を学んでいた雲心は花道においても頭角をあらわし摂津国会頭職に就いていたが、創造力に人一倍優れていた彼は花道の伝統と新時代の潮流の狭間で葛藤することになる。 当時洋花が輸入され始めていたし、「花卉装飾法」として西洋のフラワー・デコレーションも知られつつあった。結局雲心は「盛花」なる形式を考案し、池坊から独立することになる。 雲心が「盛花」を発表したのは明治三〇年(一八九七年)大阪美術倶楽部での「盛花三十瓶」展においてである。「盛花」は当初「水盤生け」とも称したように、 水盤という広口で底の浅い花器に広く低く花を生けることを特徴とした。平坦な花器への生け込みは「砂之物」などとして旧来からあるが、雲心の「盛花」は洋花を積極的に用いて色彩美を強調するものであった。 また、抽象的な宇宙観を仮託した「生花」と異なり、盆栽の影響を受けていた「盛花」は風景描写を重視した。生け方も比較的容易であり、かつ増加しつつあった洋風住宅にも合う「盛花」は、 新時代に適応した花として民衆の間に広まってゆく。
花道史の中で明治二〇年代以降、花道は次第に復調する兆しを見せる。池坊は東京に支部を開設し、「生花」も息を吹き返しつつあった。しかし明治中期以降主流となったのは、小原流の「盛花」であった。 「盛花」は明治後期から大正期にかけて全盛時代を迎え、流派を超えて広がるようになる。その過程はまさに花道の近代化の過程であった。雲心は文人気質も強い人物であったようだが近代的な感覚にも優れており、 明治四五年(一九一二年)に大阪三越で開催した第一回国風式小原流盛花展はデパートにおける最初の花展であった。また雲心を継いだ光雲は組織経営に長けた人物であり、 女性師範の育成や集団授業の整備を図るとともに雑誌などのジャーナリズムを積極的に活用し流勢を拡大した。さらに三代目豊雲はオブジェとして花を捉えて前衛いけばな運動を展開し、 近現代いけばなを代表する人物となる。このように小原流は明治以降の花道史において、太い軸を形成している。その意味でも雲心の「盛花」は近現代いけばなの嚆矢と言えるものであった。 一方の「文人花」はどうか。幕末維新期の「生花」の衰退と明治以降の近代的な「盛花」の出現、そして近現代いけばなへという通説的な歴史の中で、 「文人花」は花道史における一種のエピソードとして位置付けられる傾向がある。それは「アマチュアリズムの花」(工藤昌伸)であり、民衆に普及しなかったことをもって評価を結論付けられる場合が多い。 確かに文人花を担ったのは「いけばなの宗匠」ではなかったし、厭世的な側面も強い。しかしながら花の「趣」の中に文人の理想郷を見ようとする姿勢は、疑いなく花道の精神的伝統のうちにある。 その花は些か衒学的ではあったが、彼らにとっては「宇宙に対して消えかかった信頼の念を回復してくれる」(岡倉天心)ものであった。 自由な花態という点においては「文人花」と「盛花」はともに形式的な「生花」と対立的に位置付けられるが、精神性の深さにおいては「文人花」は「生花」に与して「盛花」と対置される。 一時脚光を浴びた「文人花」は再び潜在化したが、近代以降の花道の展開は未だ歴史になり切っていない。室町期の池坊専応以来花道の本質に宇宙の哲理という精神性が存することを考えると、 雲心以降の近現代いけばなが挿話的に語られる日が来ぬとも限らないのである。 |
『京の発言』第十号(2008年5月)
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